第1話 予約メール

不倫と呼ぶには

不倫の始まりが、ぎっくり腰だなんて。
誰も思わないだろうし、私も思っていなかった。

彼に最初に送ったのは、ラブレターなんかじゃない。
整骨院の、予約メールだった。

「本日、受診可能です」
私はすぐに「伺います」と返信した。

——たぶん、それがすべての始まりだった。


介護士になって、もう何年経っただろう。
来る日も来る日も、おむつ交換、入浴介助、体位変換、車椅子移乗。

ある日、いつもと同じ移乗をしただけだった。
腰の奥で、何かが切れた音がした、と思った。
次の瞬間にはもう、動けなかった。

同僚たちが「お大事に」と声をかけた。
自分で運転して帰った。シートに座るだけで涙が出るほど痛かったが、頼れる人はいなかった。
布団に倒れ込んで、スマホを握った。
すぐに、整骨院を探し始めた。

グーグルマップで「整骨院」と打ち込むと、何軒か出てきた。
一番上の店は、評価が高かった。スポーツトレーナー経験あり、と書いてあった。
介護で腰を壊した私には、それだけが頼りに見えた。
予約フォームに、ぎっくり腰、と書いて送信した。

すぐには返事は来なかった。
夕方、スマホが鳴った。
「本日、二十時でもよければ受診可能です」
私はすぐに「伺います」と返信した。
夫が帰ってきてから、車に乗った。

三月。私の住む地域は、まだ雪が残っていた。
お店は一軒家だった。インターフォンを鳴らすと、「どうぞ」と男の声がした。
三十代後半くらい。私と同じくらいに見えた。背は高くて、整骨院のロゴが入った濃紺のポロシャツを着ていた。

私の歩き方を見て、「腰、痛いんですね」と言った。

中は広いスペースで、施術台と、筋トレに使うような器具が並んでいた。
ウッド系の香りがほのかにした。
カルテに「介護士」と書いたとき、彼が小さくうなずいた。

歩ける程度のぎっくり腰には、安静よりも少し動かした方がいいらしかった。
ストレッチとマッサージを、腰、首、肩、頭、足までくまなくしてもらった。

手は厚みがあって、大きくて、温かかった。
力強いのに、痛くない。
こわばっていた背中が、勝手にほどけていくのがわかった。
気がついたら、まぶたが落ちていた。
介護施設で、私はいつも他人の身体を支えていた。
自分の身体を、誰かに預けるのは何年ぶりだろう。

一時間ほどかけて、ほぐしてもらった。
名前は「黒田さん」というらしい。
あまり喋らない人だった。けれど、黙りすぎることもなかった。
「腰、ずっと痛かったでしょう」「介護士、何年目ですか」
こちらが返事に困らない程度の、ちょうどいい間で言葉を置いた。

黒田はカルテを眺めていた。
「明日、仕事は」と顔を上げないまま訊かれた。
「日勤です」
「移乗、ありますよね」
「はい」
黒田は何か言いかけて、やめた。
「急性期はまだ痛いと思います。無理せず」
「明後日は休みなので、ゆっくりできると思います」
「……十一時、空いているので良かったら」
押しつける感じではなかった。来ても来なくてもいい、という言い方だった。

明後日の十一時——

帰り道、運転席に座ったとき、腰の痛みが昼間より軽くなっていた。
それ以上に、頭の中が静かになっていた。

家に着いたのは二十二時を過ぎていた。
二階で、子供たちと夫が寝ている気配があった。
私は一階で、いつものように一人で布団を敷いた。
腰の痛みは、少しだけ遠くなっていた。

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