不倫の始まりが、ぎっくり腰だなんて。
誰も思わないだろうし、私も思っていなかった。
彼に最初に送ったのは、ラブレターなんかじゃない。
整骨院の、予約メールだった。
「本日、受診可能です」——その返信が、たぶん、すべての始まりだった。
介護士になって、もう何年経っただろう。
来る日も来る日も、おむつ交換、入浴介助、体位変換、車椅子移乗。
ある日、いつもと同じ移乗をしただけだった。
腰の奥で、何かが切れた音がした、と思った。
次の瞬間にはもう、動けなかった。
同僚たちが「お大事に」と声をかけた。
自分で運転して帰った。シートに座るだけで涙が出るほど痛かったが、頼れる人はいなかった。
布団に倒れ込んで、スマホを握った。
すぐに、整骨院を探し始めた。
グーグルマップで「整骨院」と打ち込むと、何軒か出てきた。
一番上の店は、評価が高かった。スポーツトレーナー経験あり、と書いてあった。
介護で腰を壊した私には、それだけが頼りに見えた。
予約フォームに、ぎっくり腰、と書いて送信した。
すぐには返事は来なかった。
夕方、スマホが鳴った。「本日二十時、開けます」
今日の予約はすでに満枠だったはずだ。それなのに、時間外に開けてくれるという。
夫が帰ってきてから、車に乗った。
三月。私の住む地域は、まだ雪が残っていた。
お店は一軒家だった。インターフォンを鳴らすと、「どうぞ」と男の声がした。
三十代後半くらい。私と同じくらいに見えた。背は高くて、整骨院のロゴが入った濃紺のポロシャツを着ていた。
「腰、痛いんですね」と言って、私の歩き方を見た。
中は広いスペースで、施術台と、筋トレに使うような器具が並んでいた。
ウッド系の香りがほのかにした。
カルテに「介護士」と書いたとき、彼が小さくうなずいた。
歩ける程度のぎっくり腰には、安静よりも少し動かした方がいいらしかった。
ストレッチとマッサージを、腰、首、肩、頭、足までくまなくしてもらった。
気がついたら、まぶたが落ちていた。
介護施設で、私はいつも他人の身体を支えていた。
自分の身体を、誰かに預けるのは何年ぶりだろう。
一時間ほどかけて、ほぐしてもらった。
名前は「黒田さん」というらしい。
あまり喋らない人だった。けれど、黙りすぎることもなかった。
「腰、ずっと痛かったでしょう」「介護士、何年目ですか」
こちらが返事に困らない程度の、ちょうどいい間で言葉を置いた。
帰り道、運転席に座ったとき、腰の痛みが朝より軽くなっていた。
それ以上に、頭の中が静かになっていた。
家に着いたのは二十二時を過ぎていた。
二階で、子供たちと夫が寝ている気配があった。
私は一階で、いつものように一人で布団を敷いた。
腰の痛みは、少しだけ遠くなっていた。

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