第3話 化粧

不倫と呼ぶには

夜勤に出る前、私は化粧ポーチを鞄に入れた。
整骨院に行くだけなのに。
すっぴんでいいことくらい、わかっていた。
わかっていて、入れた。

その夜は、看護師がひとりと、介護士の私。
ふたりで、眠らない建物をあずかった。
申し送りを受け、利用者を車椅子に移し、食事を配り、口へ運び、下げる。
同じ動きを、何十回。
移乗のたびに、腰の奥が軋んだ。


二十時を過ぎて、おむつを替える。
重い体を、二人がかりで横へ向ける。
それでも腰には来る。
消灯。
落ち着いて終わる夜もある。
その夜は違った。
ナースコールが鳴りやまなかった。
ひとつ対応している間に、また別の部屋で鳴った。
仮眠室の布団には、結局、一度も入らなかった。

若い頃は、夜勤が嫌いではなかった。
誰もいない廊下を見回るのが、むしろ好きだった。
子どもを産んでからか、歳のせいか。
たぶん、両方だ。
今は、ただ体がきつい。

夜勤明けは、いつも職員用のシャワー室を使う。
帰ったらすぐ眠りたいから。
その朝も、いつものようにお湯を浴びた。
頭の芯がぼんやりして、顔にまっすぐ、シャワーを当てた。
夜のにおいが、流れていく。
ドライヤーで、髪を乾かす。

鏡には、くすんだ顔の、中年の女がいた。
私はポーチを開けた。
ファンデーションを、指にとる。
眉を描く。
少しだけ。
色のない唇に、色をのせた。
やりすぎないように、と思っている自分がいた。
やりすぎないように、というのが、もうおかしい。
整骨院に行くだけなのに。
清潔なシャツに着替えて、私は車に乗った。

予約は十一時。
五分前に着いた。
インターフォンを押して、中へ入る。
いつものように、ウッド系の香りがした。
「こんにちは。お願いします」
黒田は表情を変えずに、「こんにちは。どうぞ」と言った。

黒田は、いつも同じ調子だった。
喜んでいるのか、退屈しているのか、顔からはわからない。
無愛想だ、と言う人もいるだろう。
私には、それが楽だった。
家でも職場でも、私はいつも、誰かの機嫌をうかがっている。
夫の声の低さ。
スタッフの苛立ち。
先に読んで、合わせて、なだめる。
黒田は、何も求めてこなかった。
私が黙っていても、空気は変わらなかった。

「痛みは、続いていますか」
「まだ少し。でも、だいぶ良くなりました」少し迷って、つけ足した。
「夜勤も、できました」
「夜勤は、眠れるんですか」
「一応、交代で二時間は……。昨日は、コールが多くて、眠れませんでした」
「それは、大変でしたね」
黒田は短く言って、施術台を指した。
「施術中、寝ていてください」
うつ伏せになると、タオルから柑橘の匂いがした。
背中に、手のひらの重みがのる。
あたたかかった。
気づいたら、眠っていた。

どれくらい眠ったのか、わからない。
「藤崎さん」
名前を呼ばれて、目を開けた。
施術は、もう終わっていた。
「すみません、私……」
「いえ。よく眠っていたので、起こせなくて」
黒田は、タオルをたたんでいた。
「相当、疲れてたんでしょう」
体を起こす。
腰の痛みが、来たときより、少しだけ遠かった。
「だいぶ、戻ってきましたね」
黒田はカルテに目を落としたまま言った。
「痛みが引いたら、少し体を動かしたほうがいい。じゃないと、また固まるので」
動かす、というのが何を指すのか、そのときの私にはわからなかった。
「……はい」とだけ答えた。
次の予約は、取らなかった。
腰は、もう、だいぶ良かったから。

会計を済ませて、外に出た。
三月の光は、まだ冷たかった。
車に乗り、ルームミラーを見る。
映った顔は、朝のせた色が、もう半分落ちていた。
塗り直そう、とは思わなかった。
誰に見せるわけでもない。
そう思って、私はエンジンをかけた。

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