夜勤に出る前、私は化粧ポーチを鞄に入れた。
整骨院に行くだけなのに。
すっぴんでいいことくらい、わかっていた。
わかっていて、入れた。
その夜は、看護師がひとりと、介護士の私。
ふたりで、眠らない建物をあずかった。
申し送りを受け、利用者を車椅子に移し、食事を配り、口へ運び、下げる。
同じ動きを、何十回。
移乗のたびに、腰の奥が軋んだ。
二十時を過ぎて、おむつを替える。
重い体を、二人がかりで横へ向ける。
それでも腰には来る。
消灯。
落ち着いて終わる夜もある。
その夜は違った。
ナースコールが鳴りやまなかった。
ひとつ対応している間に、また別の部屋で鳴った。
仮眠室の布団には、結局、一度も入らなかった。
若い頃は、夜勤が嫌いではなかった。
誰もいない廊下を見回るのが、むしろ好きだった。
子どもを産んでからか、歳のせいか。
たぶん、両方だ。
今は、ただ体がきつい。
夜勤明けは、いつも職員用のシャワー室を使う。
帰ったらすぐ眠りたいから。
その朝も、いつものようにお湯を浴びた。
頭の芯がぼんやりして、顔にまっすぐ、シャワーを当てた。
夜のにおいが、流れていく。
ドライヤーで、髪を乾かす。
鏡には、くすんだ顔の、中年の女がいた。
私はポーチを開けた。
ファンデーションを、指にとる。
眉を描く。
少しだけ。
色のない唇に、色をのせた。
やりすぎないように、と思っている自分がいた。
やりすぎないように、というのが、もうおかしい。
整骨院に行くだけなのに。
清潔なシャツに着替えて、私は車に乗った。
予約は十一時。
五分前に着いた。
インターフォンを押して、中へ入る。
いつものように、ウッド系の香りがした。
「こんにちは。お願いします」
黒田は表情を変えずに、「こんにちは。どうぞ」と言った。
黒田は、いつも同じ調子だった。
喜んでいるのか、退屈しているのか、顔からはわからない。
無愛想だ、と言う人もいるだろう。
私には、それが楽だった。
家でも職場でも、私はいつも、誰かの機嫌をうかがっている。
夫の声の低さ。
スタッフの苛立ち。
先に読んで、合わせて、なだめる。
黒田は、何も求めてこなかった。
私が黙っていても、空気は変わらなかった。
「痛みは、続いていますか」
「まだ少し。でも、だいぶ良くなりました」少し迷って、つけ足した。
「夜勤も、できました」
「夜勤は、眠れるんですか」
「一応、交代で二時間は……。昨日は、コールが多くて、眠れませんでした」
「それは、大変でしたね」
黒田は短く言って、施術台を指した。
「施術中、寝ていてください」
うつ伏せになると、タオルから柑橘の匂いがした。
背中に、手のひらの重みがのる。
あたたかかった。
気づいたら、眠っていた。
どれくらい眠ったのか、わからない。
「藤崎さん」
名前を呼ばれて、目を開けた。
施術は、もう終わっていた。
「すみません、私……」
「いえ。よく眠っていたので、起こせなくて」
黒田は、タオルをたたんでいた。
「相当、疲れてたんでしょう」
体を起こす。
腰の痛みが、来たときより、少しだけ遠かった。
「だいぶ、戻ってきましたね」
黒田はカルテに目を落としたまま言った。
「痛みが引いたら、少し体を動かしたほうがいい。じゃないと、また固まるので」
動かす、というのが何を指すのか、そのときの私にはわからなかった。
「……はい」とだけ答えた。
次の予約は、取らなかった。
腰は、もう、だいぶ良かったから。
会計を済ませて、外に出た。
三月の光は、まだ冷たかった。
車に乗り、ルームミラーを見る。
映った顔は、朝のせた色が、もう半分落ちていた。
塗り直そう、とは思わなかった。
誰に見せるわけでもない。
そう思って、私はエンジンをかけた。


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